普及に必要なもの

新しいフレームワークを導入したときに、「今まで不可能だったこんなことができる」 ということをいかにアピールするか、ということが大きな要素となる。 (見なくても信じる者は幸いだ – ヨハネ 20:29)

インターネットの場合、それは当然に、「コミュニケーション手段の拡大」と それに伴うさまざまな事柄になるわけなのだが...

ホームページの場合

ホームページを作成するにあたって、一番の障壁は意見の調節。

いろいろな思惑

ある人は、宣教司牧が第一だ、という。
ある人は、教会内部の人に役立たないページが何の役にたつのだ、と言う。
また別の人は、ホームページに載せる内容はすべて検閲済みのものしか駄目だ、という。 各団体のページは作らない、リンクを張るだけにしろ、という。
ある人は、各団体の責任において記事が書けないなら、誰も記事を書かないだろう、という。

幸い、ホームページを見て入門講座を聞きにきたという人が開設後数ヶ月で 数名あったので、宣教司牧が一番という方々に対しては、一応の納得がいただける 状態ではあるのだが...

保土ヶ谷の場合、「宣教司牧が第一だ」と声の大きかった人たちは、 何か、宣教司牧に関わることを積極的にしているんだろうか?
神父様の説教のページはかなり好評で、このページが更新されているのと いないのでは、あきらかにアクセス数が違う。でも、このページを保守して いるのは宣教司牧が第一だと声を大きくしていた人々ではない。
保土ヶ谷教会のホームページが内向きだという批判はたぶんまだ残って いるのだと思うが、それはホームページ作成スタッフの責任ではない。 僕らは、どちらの人々にも同様に門戸を開いている。違いは、どちらの 人々がより多くの原稿を書いているか、ただその一言に尽きる。

HTMLは難しい?

いわゆる素人がHTMLファイルを直接書くのは無理なんだろうか?
保土ヶ谷教会のホームページでは、タグは <p>タグと、<img>タグ、 それに若干の <hn>タグだけ使えれば、普通のページの作成はできるように なっている。それ以外の <html>,<head>などのタグは基本的に プログラムが自動的に補うようになっているし、装飾も基本的には標準のスタイルシートを 自動的にとり込むようになっているので、普通のページを作る場合に限れば HTMLの文法に関しては非常に少ない知識だけで作成できるようになっている。
極端なことをいえば、タグのまったくないプレーンテキストだけからも、 それなりにレイアウトされたページが自動的に生成されるようになっている。

それにもかかわらず、普通の人にとって、WEBのページを作成するのは とても大変なことのように映るらしい。
巷にあふれる「ホームページの作り方」の本には、 ホームページを作るためにHTML文を直接書くのは大変だから、まず ホームページビルダーのようなソフトウェアを購入しなさい、と書いてあるし、 ホームページビルダーを使うには、一冊の解説本を読んで、マウスの使い方から 色の指定法、文字の大きさの指定、ファイルのアップロードの仕方、等々 非常にたくさんのことを覚えなくてはいけないと信じ込まれている。
テキストエディタで HTML文を作成するのは、ごく一部の職業的人間だけしか できないと思われているようだ。

(もちろん、素人が<img>タグを使って作ったページは、写真が 暗すぎたり、適切な解像度になっていなくてファイルが大きすぎたりして そのままでは使えないことが多い。それは一般の出版物でも同じことで その辺を調節するのは編集者の仕事になるわけだけれど、WEBの場合には その部分を人に任せるという発想にはなかなかならないらしい。)

CMS(コンテント・マネージメント・システム)

結局、何から何まで WEB上で操作できて、ある程度、パターンが限定 されてしまっても、それなりのものが出来上がってしまう、といった 仕組みが必要なんだろうと思う。

問題なのは、いったん、こういった「便利な」システムを作り込んで しまうと、蓄積したデータを、別の枠組みに転用しようと思ったときに、 面倒くさいことになりがちだってこと。
たとえば、blogにしろ、wikiにしろ、ある blog で蓄積したデータを 別の blogにもっていけるか?という問題。
巧妙な機能を付け加えれば付け加えるほど、転用が難しくなる。 何年か経ったときに、ツール自体が時代遅れなものになったときに メインテナンスが不可能になって全体を破棄する羽目になるのだけは 避けたいものだ。

「頻度が多くて、定型的な部分から、順次自動化しましょう」という ことではじめているので、そろそろいろいろ自動化するべき部分が 見えてきている。 一つは説教。元原稿がたぶん WORDで作られているので、<改行>のみ の行がパラグラフの区切りになる。一行目をタイトルとみなして、<h3>タグ で括り、残りを空行ごとに<p>タグで区切れば説教のページは出来上がる。 たまにこのパターンに入らない原稿は、後で手で修正とするという方針で よければ、WEBインターフェースなんかは簡単にできる。 (ただ、どんなに簡単にしても、使ってくれるかどうかはまた別問題。 なにしろ、WEB上で操作するより、メールで「お願い!」と書くほうが 楽だもの...)

双方向性

掲示板

ホームページがあるところには付き物の掲示板なのだけれども、 いま一つ洗練された感じがしない。
(そう思う理由の一つは、WEBで使われているHTTPというプロトコルと 掲示板という実現方法との相性があまりよくないことがあげられるのだが、 一般ユーザーがこういう非効率さを気にするとは思えないので、 本質的なところはもっと別なところにあるのだろう)

最近流行っているものにBLOGやWIKIというものがある。掲示板のような 日記のような。ここではノーコメントとしておきます。

...高円寺教会がWIKIを使ってますね。 よいスタッフに恵まれているようで... 要注目です。

メーリングリスト

もう一つの意思交換の手法が、メールマガジンや、メーリングリストと呼ばれる もの。
メールマガジンが主催者側から読者側への一方通行の伝達手段であることを除けば メーリングリストも、メールマガジンも、メールを通信手段とした大量伝達手段 である点で対して違いはない。

ネットワークニュース

昔からあるもう一つの大量伝達手段が、ネットワークニュースと呼ばれるもの。 日本語が主体なものではfj.*などが有名だが、さまざまな団体が独自に運用して いるものもある。

いろいろな理由で、現状では、プロバイダのネットワークニュースに対する サポート体制はあまり積極的なものとはいえない。

グループウェア

企業内で情報の共有を目標に、ネットワークニュースやメーリングリストなどの いろんな要素を取り入れて、グループウェアというジャンルの情報共有手段が 分野として存在している。
ロータスノーツなどが有名だが、、、

特定多数

ネットワークニュースが衰退しつつある一方で、2chのような掲示板が 盛り上がっている理由の一つに、「匿名性」という要因を無視することは できない。
かつて、実名主義で、特定多数を対象としていたメディアが、 匿名で不特定多数を対象とするメディアに圧倒されている。

spam

実名主義がなし崩し的に崩壊していった要因の一つに、 良くも悪くもインターネットの大衆化によって「誰でもインターネットに 接続できるようになった」ことがあげられる。
かつては、メールアドレスを見れば、敢えて名乗りをあげなくても 所属組織が推測できたので、特に実名を強調しなくても、自ずから節度ある 行動が要請されていたのが、今では、メールアドレスを見ても、それは 単に利用しているプロバイダを表しているだけでそれ以上でもそれ以下でもない。

ニュースに流れるメールアドレスは、spam業者によってメールアドレス収集の 格好の場所とされ、「spamを避けたければ、フリーメールのような使い捨ての メールアドレスを利用すべし」といったアドバイスをする者まで現れるに 至っては、もはや、ネットワークニュースに実名で記事を書くのは 古くからインターネットに関わっている人々だけになってしまった。

教会ネットワークなら

教会ネットワークなら、半ば閉じた、半ば開いた、節度あるコミュニティが 実現できるのではないかという気もする。

コラボレーション

カタカナで書いてはみたけれど、要は、共同作業ということ。

情報の蓄積

継続は力。

とにかく、再利用できる形で情報を蓄積すること。

著作権

今の聖書の引用のように、強すぎる著作権の主張は、しばしば宣教の妨げとなっている。
例えば、誰もが唱えている「主の祈り」をサイトに記載したら、 誰かの著作権を侵害したことになるのだろうか?
文語の祈りはたぶん大丈夫だろう。しかし、口語の祈りはまだ公布されてから 数年しかたっていない。祈りの性格を考えれば、現実問題として著作権が主張されることは まずなかろうが、誰かが著作権をもっているだろうこともまた事実だろう。

例えば、ローマ法王の説教を日本語に翻訳したものをいち早く配布したいと 思っても、配布するにはバチカンの許可が(たぶん)必要になる。
翻訳されたものがすでに出版されていれば、「それを購入してください」ともお願いできるが、 そうでない場合は、私的な翻訳を、私的な複製の範囲で配る以外に方法がない。
WEBに掲載するのは私的な複製の範囲を超えてしまうのでできないということになる。

著作権を放棄せよとは言わないが、もう少し緩い条件の下に自由に引用できる形態の 著作権の適用形態があってもよいのではないだろうか?

キラーアプリケーション

サンマイクロシステムズという会社が、もう何年も前から、「The network is the computer」 という言葉を使っている。
もう、単体のコンピュータに何かを載せて閉じた世界でアプリケーションを動かしていれば よいという時代ではとっくになくなっている。

FSF(フリーソフトウェアファウンデーション)のリチャードストールマンが 「学校や教会では、フリーソフトウェア(だけ)を導入するべきだ」と言っている。

サンプルアプリケーション

信徒台帳管理というのがキラーアプリケーションになるとはまったく思っていないけれど、 どの教会でも OA化というときまって出てくるのが信徒台帳のことなので、 それなりに需要はあるのだろう。 目の前にあるものをちょっとだけ改善したい、という典型的な要望の一つだ。
プログラムの複雑さの程度を考えると、プログラムを作り始めた人が 手始めに練習用サンプルとして作る程度のものだと思うので、このサイトでも 少しデモンストレーションを兼ねて作ってみようと思う。

(大変なのは、普段と違ったプラットフォームで使われる、不慣れなツールを 覚えることと、ほとんど文書化されていない仕様を仕様としてまとめることで、 プログラムそのものは3日もあればできる規模のものだと思う)

シンクライアントのアプリケーションの例としては、そこそこ役に立つのでは ないかと思う。